浄化について

2011年7月26日 (火)

勘違いしやすい大切なこと

神示の内容はもちろんすべてが一如の響きをもつ大切事なのですが、

ここに我が強いことの証となる勘違いしやすい大切な内容がありますのでもう一度振り返ってみたいと思います。

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「汝のマコトは他人にマコトを通さする事にてはござらぬぞ
汝がマコトを貫き通す事にてあるよ
一緒にしてはならぬ事ぞ。
汝の周りの不調和、不都合申すものは、何時の時か、
汝自らが外した真釣りのお知らせじゃ、
くどう申し置き居ろうが。
【メグル情け】のお知らせを、
ご自身のご都合の好き事どもだけに当てはめんで下されよ。」

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他人の事はこの方に任し置かれよ
他人を責めねで和するハタラキあるではないか。
最期の最後に至りて迄、醜き心育むで無いぞ。」

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「解かりてもらおう思いてなさるは身欲にござるぞ。
通ぜねば、すぐに怒りに変わる底の浅きものじゃ
恥ずかしいぞ。
そが我善し汝お一人の思い込みじゃ申して居るのぞ。」

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「蛇同士の争いなれば、勝手になさればそれで宜しいのじゃが。
中に居られるマコトの者はそうは行かぬ由、
ご注意致し置くぞ。

汝がマコトの者にあるなれば、
汝の上が汝のご都合悪しきばかりをなさるから申して、
汝が上を言挙げなさるは『あやま知』にてあるを、
先ず先ずに知り置かれるが善いぞ。
汝のマコトがケガレるぞ。   
上の者にも汝にも必ず思凝るメグリを作り残させしもうからじゃ。
他人にメグリを持たせぬ様、
自らのご都合は後にして、他人善かれ思いてご苦労しなさるが、
マコトの者の真姿にてござろうがな。

上の申す通り何でも魔素直に、
マコトにあらざるも成せ申して居るのでないぞ。
マコトを護持致すに《身欲》を捨てなされて、
ご自身の事は後の後の後に置かれて、
下の下の下に置かれて、
お命はハナから捨てられる覚悟持てなさるのなれば、
この方が必ず後に控えてご守護致すぞ。
生き死になぞとケチなことは申さんぞ。
万古末代のご守護にてある。」

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2011年1月28日 (金)

腹が立ったら怒れ

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むかつくぐらいでは、怒るな。

腹が立ったら思いっきり怒れ。

浄化は我慢したり、無視したりして、気持ちが落ち着くものではありません。

公共の場では憚られますが、空気を変えたいときに大きく拍手をすることがあります。

場を清めてくれます。新鮮な空気を送り込んでくれます。

腹の虫が収まらない怒りは本物だといいますので、思いっきり怒った方が相手のためになるようです。

しかし、むかついたり、鳩尾付近にくる異変には十分に注意が必要です。

腹の上部の胸部の気持ち悪さは惑わしの可能性が多いことがあるようです。

この時に本気で怒ってしまうと自分の首を絞めかねません。自分自身に即跳ね返ってくるでしょう。

本当に気持ちが穏やかでゆとりのある人は本当に清らかな人なのでしょうね。常に浄化されているのでしょう。あるいは、謙虚なゆえに腹が立つということがないのでしょう。

そう、謙虚であること。

あろうとすればするほど、腹ただしいことに遭遇するのです。

そして、今日お仕事を通して、やっと少しだけですがその光がみえたようでした。

なにを感じたかというと、お客様に対する気持ちや感謝に対する気持ちがいままでは違っていたのだということです。

謙虚のつもりが謙虚でなかったのですね。

つまり、自分というアイデンテティーが自分自身の中で出来上がっていて、それが自分はこうでなくてはならないという思いが謙虚から遠ざけてしまっていたのです。

わたしは今お客様をお迎えしている。それはありがたいことであることは当たり前ですが、

その気持ちが誠であれば、ありがたいという言葉と思いが行動と融合して自然にそして真にお客様をお迎えする姿勢が出来上がっていることに気づいたのです。

そしてその姿勢はへりくだる事を躊躇しないで当たり前のようにできること。

自分を主張することなく、例えばお仕えしているご主人さまをお迎えするような忠実な気持ちを持てること。

相手よりも一段も二段も三段も下がることができると、

こうでなくてはならないという思いや鎧(虚勢)がいかに不必要かがみえてくる。

だって、この状態ってとっても優しくなれて、どんなことを言われても腹が立たないから

それもそのはず、だって、謙虚とは相手よりもへりくだることで、自分はあなたよりも下手ですよということを認められることだから。

たとえ、相手があなたを惑わしたり、騙したり、振り回したとしてもそれをマイナスの意味で受け取らずに普通の事として受容できることだから。(あら、私こんなことしてたら、いけないわね。あなたもこうしててはいけませんわ。と相手を責めることなく自然に良い方へと向かって、まるで天然さんのような会話になるのでしょうね!)

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2011年1月27日 (木)

不浄

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きょうは図書館へいってきました。

その前に鎮守様に参拝して、「あること」についてのメッセージをいただくつもりでした。

いつもおみくじにお聞きした事に関するメッセージが的確に示めされるのですが、

今回は違っていました。

そこに有ったメッセージは

「小さい榊のその一枝にこころこめたる御玉串。神様は不浄をうけたまわぬ。神様につなぐ心の綱は、飽くまで清くなければならぬ。清くなければ神様に通じない。」

というものでした。御玉串とは自分の心と身体を神様に捧げるという意味があります。

そうです。私が神様の願いに沿って清められていないために私の思いは神様へ通じてないのです。

今の私は穢れています。心と腹に怒りと不安を持っているのです。

そして、それに気づかせていただきました。

その気づきこそが、今の私へのメッセージであり、浄化作用を怠らないでいることで

自分を磨くことに全身全霊を込めて、腹を据えて足を地に着けた生活ができれば

参拝の時に伺った「あること」はひとつの現象に過ぎず、

なんでもないことだと言う事を理解できるのでした。

怒りと不安は不浄のたまものです。

それを認識して気づくだけで腹の中の思いを清めることができます。

すーっと思いが蒸気のように細かくなって消えていきました。

お陰さまで、清められると「あること」に対する思いも消えてしまいました。

神様のメッセージは少ない言葉の中に万語を語ってくださるのですね。

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2011年1月26日 (水)

浄化:心と身体の食べ物

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浄化、洗濯、身魂磨きなど、色々な言い方があります。

ここでは馴染みのある「浄化」という言葉を使いましょう。

改めて浄化について綴っていきたいと思います。

浄化は善も悪も包み込んで弥栄(いやさか)えていくことで、

平面の次元から立体の次元へと上昇するという意味があります。

しかも単に心だけをきれいにするより奥深い意味があります。

浄化は心だけでなく、身体もきれいにします。

つまり、身体に必要なものを腹いっぱいではなくて、腹八分目にいただくことでもあります。

食べ物は2分は神様へお供えしてその日の食べ物に感謝を表明し、自分は8分いただきます。これを昔から腹8分目と言います。

食べ物はよく咀嚼(そしゃく)していただきます。上歯と下歯を噛み合わせて噛み噛み(カミカミ)することで神に繋がり、自己の内側の魂のためのエネルギーになると言われます。

食べ物は唯一神より人間に与えられたもの。人間が神になるために与えられているのかもしれません。お日さまとお土さまのエネルギーを受けて育つ食物は、人間に食べてもらうことを使命として存在します。人間に食べてもらえる事が食物の喜びなのです。

ですから、畑のものには喜びのエネルギーがあり、それを人間が食する事で身体だけでなく魂を喜びへ変化させてくれるのです。

反対に動物はもともと人間に食べられるために存在しているわけではないという宇宙の法則があります。そのため、死の恐怖にさらされて殺された動物を食することはその恐怖を頂いている事と同じです。

喜びのエネルギーは宇宙の弥栄(いやさか)と調和して浄化作用を及ぼしますが

恐怖のエネルギーは心にそれと同様の作用を及ぼしかねません。

できれば魂と身体のための浄化に繋がる食物をいただくことで

人間の心と身体が浄化されていくワンステップを体感されるでしょう。

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2010年11月28日 (日)

浄化と除霊との違い

前回の浄化の記事から時間が経ってしまいましたが

何かの気づきのヒントになればと思い記事にさせていただきました。

(前回の記事は

http://123ro.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-81a4.htmlです。

携帯でご覧の方はカテゴリーをクリックして行の間をクリックしていただき、題名「浄化:人々の使命」をご参照ください)

除霊はその漢字の通り、霊を排除すると言う意味を持ちます。

悪のもの、嫌われ者、怖いものなどとして

それらを取り除くことを意味します。

本来はしかし、全ては神様のお許しの元、その存在を許されていて

それぞれには神様に与えられた働き(使命)があることを理解すると

嫌なもの、悪のものによってその本人が乗り越えなくてはいけない気づきに気づくために存在してるということを理解します。

また、私たちの思いは現実化させる力もあるため、存在しないものや世界を生み出してしまうこともあります。

それらを排除してしまうことは

例えば病気のガンを医療で取り除いてしまう行為と同じで

本人がその病気で何に気づかなくてはいけないのかという気づきのチャンスを取り除いてしまうことになります。

しかし、このことを頭ではなく、本当に腹で理解するためには

浄化が必要になります。

浄化=腹で理解することに繋がるからです。

浄化とは、つまり、善も悪もなく、全てを受け入れて上昇させることができること。腹で理解することは考えずにスーッと受け入れて飲み込め理解できること。

祓い浄めとは悪も福も調和させて平面的では無くて上に向かって立体的に栄えていくこと。

思いは積もれば重く(思く)なり、下がっていきますが、

浄化は思い(重い)を清めて軽くして常に上昇させていくような感覚です。

この世では排除によってその場の解決はできても

本人の魂の成長という永遠の立場から見ると

それは一時的なものでそれを理解できるまで同じ事を永遠に繰り返すことになるのでしょう。

この違いをこの世で理解できるように

浄化の本来の意味を実践によって、頭ではなく腹で理解することが大切になります。

浄化するために私は無垢の水晶の丸玉に手伝ってもらっています。

水晶の力は浄化そのものです。見た目の通りですね。

見ているだけでも心も身体も清まるようです。

浄化は心だけではありません。

魂だけでもありません。

この魂と身体のすべてを神様からお借りして私達は生かされています。

すべてを浄化して清めることは身魂磨きと言われ

神様という親様に対する人間の礼儀になります。

それによって親神様の永遠の次元を次第に理解していけるようになるでしょう。

焦らずにゆっくりと必要でない自我や思考を無くして

開かれた道をただ身を委ねて歩んでみることが

浄化への早道でもあると思われます。

浄化の方法にも色々ありますので

次回(別の記事などで間隔が空くかもしれませんが)

は私の実践しているいくつかの浄化をお伝えしたいと思います。

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2010年10月24日 (日)

無くて七癖

人は無くて七癖と言われています。あなたはご自分のそんな思い癖にお気付きでしょうか?

癖を知ると言うことは人生で同じような事を繰り返してる理由や逃げている理由などに気付かせてくれます。

自分の癖による行ないが自分に巡ってかえってくるのです。

結局身にならずに堂々巡りする結果を招いているのは神様でも他でもない自分である…。

自分の癖に向き合いできれば手離していくと誰かのせいではないということに気付けてきます。

何で今こう思ったのだろう?だって誰々さんが…
という気持ちから
何故こう思ってしまうのだろうと自分の内面に問う。

そこにその理由が必ず見つかります。

あの人意地悪だからとか、あの人全然こうしてくれないからとか、あの人に嫌われて傷つきたくないからとか…

何故いつも自分だけ頑張っているのに不幸せなんだろう…って皆が思っています。あなた一人だけではありません。

でも何故だと思いますか?

それは「何か」を受け入れて「何か」を手離せずにいるから…。

「何か」とは見えないもの。
ひとつは遠く尊い存在。
もうひとつは自分の世界に凝り固まっている自我。

わたしもそうでした。

見えないけど受け入れることで開かれていく世界と頭ばかりを使う自我で凝り固まって自分で視野を狭ばめてるだけのシンプルな違いになかなか気付けないで、すぐ頭で考える癖がついていました。

そして何をどのように努力すればいいのか分からなくなりました。

そんなとき焦って新しい事を始めてはみたものの、どうして自分だけ!?といういじめのような厳しい縦社会の現実に苦しんだ末何とか逃げようとまた違う事を試みたのですが、とことん相手にされずに終わりました。

そんな時、自分で考えることをあきらめて泣きながら神様にお伺いしました。ただ普通に立ったまま両手を合わせて「どうしたら良いのか教えてほしい」と祈り続けました。

するとその時

「苦しみから逃げずにとことん苦しみを越えること」

と遠い記憶の中の本の一文の言葉が心に入ってきました。

自分の中の視野を狭めている凝り固まった無駄な自我を手離して誰かのせいにする事なく自分が引き寄せた結果だと理解し「苦しみから逃げずに苦しみを越える」ことをその時理解しました。

そして頭で考えること(自我)を手離し心で神を求めて受け入れただけで今まで逃げたかった環境を客観視(俯瞰する)できる自分が居て、その環境を乗り越えたら必ず変わるという確信のような気持ちに変わっていました。

そうして本当に変わっていきました。苦手な人だったのにまるで違う人と話しているように変化し、そして予約のキャンセルが入ってもまるでパズルのようにぴったりと別の予約で埋まるようになりました。

今は動くときではない、じっと今の状態をやり遂げるまで身を委ねるときだと本当に理解して実行できる自分がいます。

頭で考える自我を手離し心から神を求める祈りには真心が入っているのでしょう。

しかしまだ何か方法があるのではないかと考えてしまう余裕のある内はなかなか難しく、もう考えるのにも疲れてどうなっても良いと諦めてしまえるほど追い込まれて切羽詰まると

その心は開かれ見えないけどそれは確かな幸せへの限りない意味のある努力の道であるのだと言う確信を私は体験から学ばせていただきました

心で求めると理屈では理解できない事が理解でき、腹に力がぐっと入ってくるのを感じられます。

人は苦しみを越えて少しずつ少しずつ腹を据えていくのですね。

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2010年10月18日 (月)

「浄化」:人々の使命

本来人間が元々持っているもので、

それはへその緒のように長く果てしなく高次元の神と私達の先祖様に繋がっている根がひとりひとりに植えつけられています。

ところが、時は暗黒の世に入った途端、その根が土深く眠りに落ちてしまいました。そしてそのために人間は根のつながりを忘れて、自分達の罪穢れを全て尊い生みの親神様にきせて東北の鬼門に押し込めてしまったのです。本当の地の神様である、自分達の親神様を自らの意思で...。

ところが時は熟して時節が許され、ようやくその鬼門の開かれる時が来ました。

神様はその眩い長もののお姿をして

この度の御用のために現れ給もうたのです。

そして人々に犯してしまった罪の懺悔と改心をお求めになられました。

なぜなら、この度の御用とは

肉体をもつ人々が神様の入れ物となり、

神人として大神様の御意思に沿う使命を果たすためなのです。

その使命がどんなものかは誰にも分かりません。大神様のみぞ知るです。

少なくとも邪魔が入るため分かってはならないのです。

そのときが来るまで人々は改心という「浄化」を行うことが使命なのです。

そしてその磨き具合(浄化の出来具合)によって次の使命へと

階段をひとつひとつ上がって行く事になります。

焦る必要はありません。

それが「浄化」という行いです。

浄化は非常に奥の深い「行」です。浄化は全てのカルマを解消するまで繰り返されます。カルマの借銭を無にする「行」のことなのです。

〜 次回の「浄化」シリーズの内容 〜

浄化と除霊の違いについてのお話です。

(皆様が浄化の大切さを理解されて本物の神がかりになれますように
私は裏方という役目をもって、このような形でご縁のある皆様にお伝えしていきたいと思っております。)

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