祈りと行について

2011年11月24日 (木)

行じること

行とは言葉の教えではなく自らの行いによって背中を見せて広めていくように他を救っていくことでもあります。

ここで申し上げる行とは今世で肉体のある内に曇り一つ無い澄みきる水晶の身霊へと磨いていくことです。

言葉少なく慎ましく生きることでもあります。

またどんな不都合にも囚われることなく揺らぐこともなく、その意味の因果を理解しありがたく受け容れられるようになることでもあります。

決してすぐのお陰はありませんが、囚われない苦しみを体験しながら、

一歩一歩先に行くほど無限に弥栄していく道でもあります。

無限の世界を表として考えるようになり

生かされある天地に感謝することが自然にできてきて、自我を深く高く大我に融け入らせた調和そのものであるという体感をしていくことでもあります。

嬉し嬉しですね。

「火立ち土透み水鳴るが、神立ち幽透み現鳴るが、霊立ち力透み体鳴るが、口立ち心透み行鳴るが、一二三マコトの姿鳴り、マコトヒフミの姿鳴り。日立ち月透み地鳴れば、この地ミロクヘ結ぷ鳴り。スミキルマコトの無かりせば、適わぬ事と知れぞかし。」(火水伝文)
  
[汝の体を支えるに神々がいか程のご苦労をなされて居るか、ちいとは解かりて上げなされよ。
汝ご自身がひっくり返した真釣りの数々を、一言の文句も言わぬどころか、尚、慈愛の笑み持て、メグリ少なきを量られて居るのぞ。」(火水伝文)

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2011年11月19日 (土)

議論

現在日本国は様々な議論の真っただ中に居ます。

政治的にも経済的にも、これから日本はどうなる?どうなる?どうなる?

どれも有限の形を表とした平面的な議論ですので生まれ出た処置には限りがあります。

「真釣り申すは知恵や理屈では益々外れしもうを、くどう申し伝えあろうがな。」(火水伝文)


ではどうすれば実を結ぶ結論ができるのでしょう。

それは霊主心従体属の無限を表とした立体的な議論です。

無限は多面的で立体的な幾何学的な世界ですがここで大切なのが調和と秩序を重んじて生まれ出る結論だということでもあります。

その結論は神に委ねるということ。するとそれは永遠に栄えて行き詰ることがありません。無限に幾重にも幾重にも深く高く調和のヨロコヒ゛へと拡がっていくことがその働きであるとも言えます。

反対の体主心従霊属とは有限の形を主(表)とした状態であり、今の平面的で一方通行の考えを通そうとする姿のことでもあります。

頭で分かろうとしても難しい感覚ですのでこれを行じながら心で理解していきましょう。

霊主の考え方になるためには先ず損得勘定で分け進む形の有限の考えを一切止めなくてはなりません。この考え方では委ねることができませんので初めは良くてもいずれ行き詰まり崩れてしまいます。バブルがこれを世界のひな型として知らせてくれた一つの大きな例だったと言えます。

目に見えないものから出たものは人智を越えた無限の神智です。そこにあるのは調和と秩序に則った神智に委ねたヨロコヒ゛へ向かって永久に進化していく生き方と言えます。

委ねるとはこのように現在の表となっている逆さまな有限を主とした損得勘定、善悪判断と分け進むことを止めて、無限の主の座に改めていくことでもあります。

これを日々行じていくうちに表と裏の顔を使い分ける自分が薄らいできて、言葉も要らずに行いによって語ることができるようになるとあなたの表の顔が本来のあなたの素性である裏の顔と一致してウソが無くなってくることでもあります。

そうして自然に口と心と行が一致してくるとあなたの真中の心の座をマコトに戻すことができてくるのだとも言えますので迷うことも議論することもなくなってくるでしょう。

人間同士の智慧の正体である分け進む平面的で苦に結ばれてしまう議論から、神智に委ねた立体的な議論、委ねられるので議論する必要がなくなり迷いがなくなるという現実に結ばれていくことになるでしょう。うれしうれしですね。

「マコト生かされあるが、段々と解かり参りて来た者は、いかに生くるか等申す《迷い》は少のう鳴りて来るのじゃ。」(火水伝文)

ひとりひとり誰も落ちこぼれることなくマコトを持てるようになることが神様のこ度の願いです。

神様がそのためにひとりひとりにお情けのお知らせをしてくださっておられますがそれでも自我欲に気づけぬひとばかり。

しかし、神様は誰ひとりをも見捨てられる事はありません。

神様の至慈至愛の御心をお察しくださいますようお願い申し上げます。

「どっちが楽かと比ぶるから、楽を知るのに苦も知る事になりてしもうたのじゃ。既にこに感謝の響きは無かろうまい。『分かつ知』で知る言うは、一如に真釣ろうハタラキを二つに分けて知る申す事にてあるのぞ。
どっちが早きか比ぶるから、遅きも知る事になるのじゃ。どっちが善きかと比ぶるから、悪きも知る事になるのであろうがな。こも既に感謝の響きは無かろうぞ。

心が曇りたが由でござるよ。苦ある悪ある申すなれば、そは『一如に真釣ろう響きを分け知りた』そが事にてござろうが。そが真釣りを外した証にてもあるのざぞ。そが汝等の知恵の正体にてもござるのじゃ。なれば『苦』申すは、そが知恵で汝等ご自身が創り出した『苦』なるを知りて下されよ。」(火水伝文)

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2011年4月10日 (日)

災害について私達ができること

9日に行なわれたワークショップではこの度の地震災害について
ご参加いただきました皆様と共に短い時間ではありましたが
たいへん貴重で前向きなお話し合いができましたことをここにてお礼申し上げます。

主婦・お母様という視点から、
社会人・仕事人・社員という視点から
実際に原発避難や災害を経験された方の視点から
親戚や知人が津波でお亡くなりになられた方の視点から
そして都会(東京)の人間関係と地方の人間関係との違いを認識し
助け合いの認識や精神面での相違など
また、沢山の情報による報道の真実に至るまで
実に様々なご意見の交換がされました。

その中でも情報の影響力が非常に強い世の中であえてお子様に心配をさせないために一家の柱がしっかりと腹を据えているだけで家族が安心できる家庭社会を築く知恵があるという事がとても印象的でした。

人間のへその緒はすべての存在との繋がりを意味しています。
宇宙のすべてが調和という秩序の中で生かされており、その永遠なる調和の視点からこの災害というものをみていきますと、やはり人間としての気付きが隠されているのでしょう。

ひとりひとりの繋がりを取り戻し、団結したときに起こる大きな大きな大和魂の精神力を甦らせる時なのかもしれません。

戦前、戦中にはまだ腹にすえていたはずの精神の芽が戦後様々な抑圧により萎んでしまいました。

しかしその根はへその緒を通って再び調和の息吹という気を送りこまれる時、その根は大きく成長するでしょう。

大和魂を持つ者が皆で一つになるとそこに調和の気が生まれて広がり、そして秩序に反するものを見極め、その反するものと共に、存続していくことがこれから求められる本物の大和魂の姿だと思うのです。

取り越し苦労するよりもなにが起ころうともびくともしない腹を据えた精神力が肉体にも投影されて
精神と肉体とともに新たなる力が生み出され、その肉体は原発や原爆にも耐えられる人智を超えた尊い神智を目の当たりにする世界の到来を意味するのかもしれません。

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2010年1月22日 (金)

お祓ひといのり

ひふみ神示 第05巻  地つ巻 / (第八帖 (一四五)  

祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。

借銭なしとはめぐりなくすることぞ、昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。

世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。

悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。九月十九日、ひつ九の 。

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